日本に残るミイラ(即身仏)は果たして全て同じ目的・同じ理由でミイラになったのかというと、決してそうではない。全てが僧侶のミイラであるにも拘わらず、その思想的な背景は実にさまざまである。 これらのミイラの背景を分類すると大体以下のとおりになる。
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これらのミイラは全て真言宗、湯殿山の修験者である。全員名前に「海」号があり、これは真言宗の弘法大師空海の「海」を指している。 「即身成仏」は真言密教の根本思想であり、その内容は一言で言えば「大日如来との一体化により現身のまま仏陀になる」ということのようだ。これが真言密教という宗教の最終的な目的地という訳である。この「即身成仏」の思想が「遺体を残したまま成仏する」というものではないのは勿論である。 しかし、17世紀から18世紀の亘って続いた湯殿山(真言宗)と羽黒山(天台宗に改宗)の闘争の過程で、これらのミイラが相次いで登場することになった。これは別項で述べた空海入定説と相俟って「真言宗の湯殿山」を証明するために、更に湯殿山で各種の厳しい修行を耐え抜いた修験者の最高の修行形態として、「即身成仏を実践してみせたもの」と考えられている。 経緯はともかくとして、「即身仏」という言葉は本来これら「即身成仏を実践した」ミイラにのみふさわしい。 |
弥勒信仰とは「弥勒菩薩が五十六億七千万年後にこの世に下生し、菩提樹の下で三度の説法を行う。この結果、釈迦の救済できなかった282億人が救済される」という思想に基づく信仰である。昔から南岳慧思大師のように「弥勒の下生まで生きつづけることが出来ないので、仙人になって待ちたい」などと願文を立てた人も多くいたが、「弥勒の下生まで体を残したい」という考えでミイラになったものが存在する。 ただ、これらのミイラは空海入定説の影響も受けている。というのは、空海入定説の成立の過程で、本来なかった弥勒信仰との結びつきが発生したからと考えられている。空海は弥勒思想を持っていなかったと言われるが、「御遺告」という文献に空海が「自分は死後、弥勒の兜卒天に往生して、五十六億余年の後弥勒とともに下生する」と言ったと記されており、このあたりから空海と弥勒信仰が結びついたと考えられる(ちなみに「御遺告」は後世の改竄の可能性が指摘されている文献である)。 ここに分類した弘智法印と秀快上人はともに弥勒信仰に基づき入定したと考えられているが、弘智法印は高野山に、秀快上人は真言宗豊山派の長谷寺に学んでいることから、ともに空海入定説を知っており、その影響を強く受けているのは間違いない。 特に秀快上人は石室内に「阿」という梵字を彫り、これを眺めながら悟りを開くという「阿字観法」を行いつつ入定している。この行は密教の最重要修法であり、この意味では文字通り「即身成仏」を目指したと言ってもよい。このミイラも本来的な「即身仏」と呼ばれるべきものである。 |
宥貞法印は「薬師信仰」に基づくミイラと言われている。彼は薬師如来の石仏の中で入定した。真言宗の僧侶であるが、彼の入定には空海入定説の影響は見られない。 入定にあたって薬師如来の十二大願の説法を行い、「わが身を留めて薬師如来たらん」と遺言したという。薬師如来とは文字通り悪疫退散を司る如来であり、まさに自らが薬師如来となって人々の病気治癒のためになろうとしたのである。彼の願いどおり、ミイラの衣が病に効くということで近隣では絶大な信仰を集めているようだ。 |
阿弥陀信仰とは法華経に基づく信仰で、念仏を唱えることにより極楽往生を願うものである。弥勒信仰の衆生済度と比較すると、個人の幸福を追求する色彩が強い。 舜義上人はまさにこの阿弥陀信仰に基づく入定例と言われている。彼は阿弥陀如来の石仏の中で入定しており、阿弥陀仏の体内で極楽往生したものと考えられる。 一方の弾誓上人は、念仏聖として名高い僧であり、筋金入りの阿弥陀信者である。入定した寺の名も阿弥陀寺。これも阿弥陀信仰のミイラと言ってよいであろう。 |
霊峰富士山は古くから信仰の対象であり、江戸初期に角行が開いた富士講など多くの行者を生んだ。その中で食行身禄など実際に入定したという例もいくつかある。 妙心法師も富士大行者と名乗って、富士山で長年修行をしてきた富士行者の一人である。彼の場合は、富士山を入定の地とはせず、その北東に位置する御正体山で入定した。その理由は「富士山にとって鬼門にあたる北東を守る」というものだったらしい。これも筋金入りというべきだろう。 |