弘法大師空海は、非常に伝説の多い人である。全国諸国に弘法大師の説話が残るだけでなく、各地で泉や湯を沸かせたりもしている。彼のこういう神秘感を表す究極のものとして「空海入定説」がある。これは弘法大師空海は、高野山で入定して即身仏になっているという説である。 実際には空海は承和二年(835)三月二十一日に高野山金剛峰寺で入滅しているが、この年の十月に弟子の真済が書いた「空海僧都伝」に釈迦涅槃の姿での空海の病死の姿が記され、「続日本後紀」には淳和天皇の弔書が引用されており、その中に「荼毘」の文字があることから、死後火葬されたものと考えられる。 「空海入定説」が発生したのは、空海死後百年以上経ってからのことである。 |
初めて空海入定説を記録した文献は、空海死後百三十三年目に登場する。以後、多くの文献にこの入定説話が載るようになる。以下の表を見れば、入定説話にどんどん尾鰭がついていく様がわかる。
また、観賢僧正は比叡山の天台宗との対立を背景に、空海への大師号追賜運動を展開した人物であり、それらの要因が相俟って、最後には弥勒信仰との結合や土中入定説の登場にまで発展したものと言えよう。 |
空海の入定説は、上述のとおり時代が下ってから作られた伝説であったが、この伝説がその後の日本の即身仏に与えた影響は大きかった。 空海入定説が脚色され、最後には土中入定とも結びついてしまったことが、湯殿山系即身仏を生んだ一つの要因とも言われている。少なくとも初期の即身仏である淳海上人、本明海上人は、この入定説話を知っていたようだ。更に1630年から150年以上に亘る羽黒山との抗争が直接的な契機となって、天台宗に改宗した羽黒山との差別化を図るために即身仏を多く作ったというのが真相と考えられている。 |