空海入定説

空海入定説とは
 弘法大師空海は、非常に伝説の多い人である。全国諸国に弘法大師の説話が残るだけでなく、各地で泉や湯を沸かせたりもしている。彼のこういう神秘感を表す究極のものとして「空海入定説」がある。これは弘法大師空海は、高野山で入定して即身仏になっているという説である。
 実際には空海は承和二年(835)三月二十一日に高野山金剛峰寺で入滅しているが、この年の十月に弟子の真済が書いた「空海僧都伝」に釈迦涅槃の姿での空海の病死の姿が記され、「続日本後紀」には淳和天皇の弔書が引用されており、その中に「荼毘」の文字があることから、死後火葬されたものと考えられる。
 「空海入定説」が発生したのは、空海死後百年以上経ってからのことである。
空海入定説の発生
 初めて空海入定説を記録した文献は、空海死後百三十三年目に登場する。以後、多くの文献にこの入定説話が載るようになる。以下の表を見れば、入定説話にどんどん尾鰭がついていく様がわかる。
文献名年代内容
「金剛峰寺建立修行縁起」康保五(968) 空海が結跏趺坐して入定し、四十九日後にも容色不変で髪や髭が伸びていたという入定の姿が描かれる
「政事要略」巻廿二
年中行事八月上
寛弘五(1008)空海が高野山で即身仏になっているとの記述あり
「栄華物語」巻十五 長元年間
(1029〜1033)
藤原道長が高野山に参詣し、空海の入定した姿を見たとの記述あり
「本朝神仙伝」 11世紀末 金剛峰寺にて入定し、後に山の頂に石室を穿ってそこに移したとの記述あり
「大師御行状集記」
御入定条第九十八
延喜中奉見条第百二
寛治三(1089)「金剛峰寺建立修行縁起」と同じ入定説話に加え、観賢僧正が延喜年間に空海の法体を見たという記述あり
「今昔物語集」巻第十 12世紀初 観賢僧正が空海の即身仏に見えた話をより詳細に記述
「弘法大師御伝」 元暦元(1184)観賢僧正が石山寺の淳佑内供と一緒に入室し、淳佑が空海の膝に触れたところ、手に香が数日残ったという逸話が付加
「高野山順礼記」 弘長二(1263)淳佑内供の話に「石室は十八間、御入定の地は方一丈六尺」などの記述が加わる
ガスパル・ビレラの書簡 永禄四(1561)弘法大師空海が弥勒信仰に基づき土中入定したという見聞を書いている
ルイス・フロイスの書簡 永禄八(1565)同上
 「金剛峰寺建立修行縁起」は、東寺の仁海により書かれたと言われており、当時火災により荒廃の一途を辿る高野山の再興に力を尽くした人物である。従って、元々空海入定説は高野山を再興させるために人々をひきつける手段として考え出されたものではないかとの推測が成り立つ。
 また、観賢僧正は比叡山の天台宗との対立を背景に、空海への大師号追賜運動を展開した人物であり、それらの要因が相俟って、最後には弥勒信仰との結合や土中入定説の登場にまで発展したものと言えよう。
空海入定説の影響
 空海の入定説は、上述のとおり時代が下ってから作られた伝説であったが、この伝説がその後の日本の即身仏に与えた影響は大きかった。
 空海入定説が脚色され、最後には土中入定とも結びついてしまったことが、湯殿山系即身仏を生んだ一つの要因とも言われている。少なくとも初期の即身仏である淳海上人、本明海上人は、この入定説話を知っていたようだ。更に1630年から150年以上に亘る羽黒山との抗争が直接的な契機となって、天台宗に改宗した羽黒山との差別化を図るために即身仏を多く作ったというのが真相と考えられている。