文献上の入定ミイラ

日本ミイラの歴史
 現在残っている即身仏は、湯殿山系即身仏を中心に十数体しかないが、そもそもの「ミイラ」「死体不壊」の話は歴史的には非常に古く、その痕跡は各種歴史書の記載に残っている。
 それらを簡単にまとめると以下のようになる。勿論、文献上の記載だけであるから、全てが真実ではなく、また入定したが火葬されたもの、自然にミイラになっただけのものなども含まれている。特に空海については、その入定伝説がその後の即身仏に与えた影響は大きいが、実際は火葬に付されたというのが通説であり、入定説は空海没後250年経ってから突如登場している。
人名入定年
入定地
文献名 コメント
空海承和二(835)
高野山金剛峰寺
「本朝神仙伝」
「今昔物語」
実際は火葬に付されたらしい
証如貞観九(867)
摂津勝尾寺
「後拾遺往生伝」
「元亨釈書」
三週間経っても腐敗せずその後火葬に付した
増賀長保五(1003)
大和多武峰寺
「元亨釈書」「和州多武峰寺
増賀上人行業記」「扶桑略記」
初の入定ミイラの例
仁賀  「続本朝往生伝」増賀の弟子
成尋永保元(1081)
中国開宝寺
「続本朝往生伝」中国で即身仏になっている
維範嘉保三(1096)
高野山
「拾遺往生伝」「元亨釈書」
「高野春秋」「高野往生伝」
 
源算承徳三(1099)
京都西山
「拾遺往生伝」「元亨釈書」享年百十七歳という
小松寺上人康中(1058-64)
肥前小松寺
「拾遺往生伝」「肥前国入道」とあり本名不明
願西天永元(1110)
大和飛鳥寺
「後拾遺往生伝」 
戒深  「本朝新修往生伝」 
暹覚保延六(1140)
大和崇敬寺
「本朝新修往生伝」
「元亨釈書」
 
覚鑁康治二(1143)
高野山円明寺
「大伝法院本願上人御伝」入定したが九日目に火葬
琳賢久安六(1150)
高野山
「元亨釈書」「高野山往生伝」
「高野春秋編年輯録」
後鳥羽上皇が参拝
 この琳賢の後、高野山でも即身仏の話は残っていない。時代が下って、1363年に弘智法印が入定し、その後は即身仏が現存する時代になる。
 以後の時代において、各地に入定伝説が残っているが、即身仏となったかどうかは明らかではない。一方、現存しない即身仏の記録は以下のものがある。多くは富士行者のものである。
人名入定年
入定地
文献名 コメント
淳海 寛永十三(1636)
新潟玉泉寺
「津川姿見」「東奥紀行」
「東蒲原郡史蹟誌」
現存していた湯殿山系即身仏第一号。明治十三年の津川大火で焼失
案山吉道
久円
延宝五(1677)
富士山釈迦ヶ嶽
「日本洞上聯灯録」
「甲斐国志」
吉道は曹洞宗の僧。弟子久円は元盗賊、師を慕って一緒に入定
食行身禄享保十八(1733)
富士山烏帽子岩
「三十一日の巻」富士講の六代目
日鑑 天明五(1785)
千葉県安房郡丸山町加茂日運寺
 資料は大正十三年の日運寺の火災で焼失
伊藤産行文化六(1809)
 
 食行身禄の弟子
 上記のほか、入定年などは明らかではないが、大日坊に月光海上人ほか一体、注連寺にも岑海上人の即身仏があったという。いずれも明治時代に焼失して現存しない。月光海上人は海向寺に即身仏として現存する忠海上人の友人であったと言われる。
中国の文献にみる入定ミイラ
 日本の即身仏は思想的に中国の入定ミイラの影響をあまり受けていないようである。中国にもいくつかの入定ミイラが残っており、六祖慧能(713)などはその最も有名なものであるが、文献上も多くの名僧がミイラになっていることが書かれている。
 ただその思想的背景はさまざまで、未だ定説は存在しないようだ。便宜上、この項に文献上の入定ミイラをまとめる。
人名入定年
入定地
文献名 コメント
訶羅竭元康八 (298)
婁至山
「高僧伝」 火葬でも焼けず
単道開升平三 (359)
羅浮山
「高僧伝」  
慧直   「高僧伝」  
開皇十七 (597)
天台山国清寺
「続高僧伝」 天台宗智者大師
智皆*1大業六 (610)
 
「続高僧伝」 智の弟子
智希*2貞観元 (627)
 
「続高僧伝」 智の弟子
僧徹   「続高僧伝」  
道休 貞観三 (629)
 
「続高僧伝」  
道信 永徽二 (651)
 
「景徳伝灯録」禅宗四祖
弘忍 上元二 (675)
安徽省黄梅
「宋高僧伝」 禅宗五祖
善無畏開元二十三(735)
龍門西山広化寺
「宋高僧伝」 密教の大家
法普 元和(806〜820)
 
「宋高僧伝」  
幽玄 大和元 (827)
 
「宋高僧伝」  
遂端 咸通二 (861)
明州徳潤寺
「宋高僧伝」  
行脩 乾佑三 (950)
杭州耳相院
「宋高僧伝」  
王羅漢開宝初 (968-)
明州乾符寺
「宋高僧伝」  
*1 金+皆 *2 日+希