日本に残るその他のミイラ

 日本に残っているミイラは、実はこのほかにも少数ながら確認されている。

石頭希遷のミイラ(即身仏)
 石頭希遷は、無際大師の号でも呼ばれる1,200年前の中国の高僧で、なんと六祖慧能の弟子に当たる人である。広東省韶関にある南華寺のホームページにも以下のような系統図が掲載されている。
<南方禅宗の系統図>
六祖慧能┳南岳懐譲━馬祖道一━百丈懐海┳為山霊佑━仰山慧寂→仰宗 
    ┃              ┗黄薜希運━臨済義玄→臨済宗
    ┗青原行思━石頭希遷┳薬山惟厳…洞山良介━曹山本寂→曹洞宗
              ┗天皇道悟…雪峰義存┳雲門文偃→雲門宗
                        ┗玄沙師備→法眼宗
 上図に見るとおり、曹洞宗などの禅宗宗派の始祖の一人とも言える重要な存在である。このような中国の高僧の即身仏が日本にある事情については、この即身仏を実質世に出した松本昭博士の著書に詳しい。
(1)石頭希遷(無際大師)は、湖南省南岳(衡山)の南寺(南台寺?)で790年に91歳で入寂。遺体は即身仏に作られたらしい。
(2)辛亥革命(1911)の時に、石頭希遷のミイラを祀った寺が革命軍により焼かれたが、当時大師を研究していた日本の山崎彪氏が寺から大師の即身仏を救い出し、つてにより三井物産の船で日本に運んだ。
(3)山崎氏は「大師奉讃会」なる組織をつくり、方々で御開帳を行った。大正五年に上野で開かれた大正博覧会にも出品されている。その後、「奉讃会」の主力メンバーであった平野氏により昭和五年(1930)に青梅市の山に祀り、山名を石頭山とした。
(4)戦時中、この大師を祀った寺は陸軍の結核病棟となり、平野氏没後は祀る人もなく荒廃した。この山にミイラがあるとの噂を聞いてやってきた松本昭氏が1960年に平野氏の息子から即身仏を譲り受け、日本ミイラ研究グループのものとして早稲田大学に安置された。
(5)その後曹洞宗の総本山総持寺(鶴見)がこの事実を知り、副貫首である乙川禅師が再三再四松本氏に要請し、結局1970年に総持寺に移されている。
 この石頭和尚の即身仏は、中国の南華寺に祀られている六祖慧能ほかの即身仏とは異なり、漆で固められてはいないようだ。外見はむしろ日本の即身仏に近い。一部漆布を貼った跡が残っているそうだから中国風に作られたものが、傷んで現在のようになったのかもしれない。
津軽公のミイラ
 弘前の名刹で津軽藩の菩提寺でもある長勝寺に、津軽承祐公のミイラが残されていた。ただし、これはどうやら死蝋であったらしい。墓地移転が行われた昭和29年8月3日に発掘され、茶殻の詰め込まれた座棺の中で生前に近い形で納められていたようだ。なお、承祐公は津軽公十二代目を嘱望されていたが、若冠十八歳にて病死している。
 発掘後、空気に触れたためか徐々に腐敗が始まったため、永久保存処理を施して、長勝寺に平成7年まで安置されていた。阪神大震災のあったこの年、津軽家の要請により、5月20日に火葬に付し墓地に収められたという。
 弘前駅から車で15分ほどの曹洞宗寺院が三十三ヶ寺並ぶ一番奥に長勝寺はあり、現在は承祐公のミイラの写真と、かつて収められていた棺を見ることができるのみである。
梅唇尼のミイラ
 米沢の駅に近い常信庵には「梅唇尼のミイラ」が祀られている。梅唇尼は、義経の家臣として有名な佐藤兄弟の母であり、この常信庵を建ててここで没したという。
 ただし、ここに祀られている「梅唇尼」は、この常信庵の墓地から偶然に出土した自然ミイラであり、本当に梅唇尼である保証がないのに「梅唇尼のミイラ」と称して祀っていたきらいがある。
 このためか、現在では開放を取りやめており、拝観することは出来ない。
子供のミイラ
 茨城県西茨城郡友部町の円通寺には、4歳の男の子のミイラを安置しているという。
 友部は常磐線と水戸線が分岐する駅であり、交通の便は比較的良い。
鬼のミイラ
 大分県宇佐市四日市の十宝山大乗院には「鬼のミイラ」がある。いかにも眉唾っぽいが、少なくとも実物があり、拝観もできるようなので、一応紹介する。
 大正十四年に大乗院の檀家が5,500円(当時)で購入したあと原因不明の病で倒れ、大乗院に寄贈したとのこと。実物は、現在仏様として祭られており、座った姿勢で肘を曲げて両手を胸で組んでいる。手足の指は全て3本で、角の高さは5cm、推定身長は2.1m。